2008.11.22 Sat
約束2 -レイユリ-
どれぐらいそうやっていたのだろうか。
肌を刺すような冷たい空気の中で触れている人肌は温かく、服越しに伝わってくる心音は心地良く、時間が流れているのを忘れそうになる。この場だけ時が止まっている、そんな陳腐な言い方で表現したくなるほど、穏やかで離れ難い心地だった。冷たいはずの自分の手がレイヴンの背に触れていて次第に温かくなっていくのは、嬉しいようなくすぐったいような不思議な感覚だ。
レイヴンの手がユーリの頭を撫でながら髪を梳かしていく。何度も何度も、耳の横から手を差し入れ、毛先までゆっくりと指で感触を確かめるように触れていく。いつもなら止めろと一言言って突き放すのだが、今日に限ってはその言葉は喉の奥で自然に溶けて消え、瞼を下ろして指の動きを感じていたかった。
ようやく帰ってきたのだなと、それほど長い間離れていた訳でもないのに思った。
「傷はどうなのよ」
「んー、大したことねーよ」
「青年の大したことないってのは、おっさん、信じられないんだけどね」
「まあ少し痛むけどな。傷はエステルが治してくれたから大丈夫だって。……何なら触って確認するか?」
髪を梳く手と反対の手がユーリの背を下に滑りながら腰辺りで止まったので、上目遣いに顔を見上げてそう問いかけた。触れている指をもう少し左に動かせば、傷口の辺りだ。傷跡は残っているし触れれば鈍い痛みが走るが、戦闘をしても支障がないぐらいには治っている。
「傷痕はどうなのよ?」
「残ってるけどそんなに酷くはないさ。ってーか、この程度の傷なんて日常茶飯事だろ。普段は服で隠れてるし、女じゃないんだから気にするようなもんでもないだろ」
「そうだけど、ね」
躊躇いを宿した指が傷口の上をそっと撫でる。
痺れに似た小さな痛みが走った。だが次第に指の温もりが伝わってきて、柔らかさだけが残る。
「……ごめんね、青年」
「何がだ?」
「青年の姿が消えておっさん、本当に生きてる心地がしなかった。話してても動いてても、何もかも現実感がなくてね。どっか大事なところが死んじゃったみたいだったのよ」
「…………」
「こんな思いをおっさん、青年にもさせたんだよね」
「おっさん――」
鮮やかな翡翠色の瞳は堪えるように歪められていて、口元は下唇を噛んでいるようだった。
バクティオン神殿で倒壊に巻き込まれたレイヴンの姿。それは今でも夢の中で繰り返されることがあり、たまらない喪失感に目を覚ますこともある。今は生きていることがわかっている。だがあの瞬間の心の奥が凍りつく感触は、おそらく一生消えることはないだろう。自分の手が届かない、あると思っていたものが零れ落ちてしまう、身を裂かれるような痛みは、消えはしない。
こうして今温もりを感じていても、その裏側に石畳の冷たさを感じてしまうこともある。レイヴンに触れている手が、レイヴンを斬った手と同じであることに、いいようのない苦しさを覚えることもある。
「……今更だろ、それ」
「本当にね」
「おっさんって鈍いよな」
「本当に、ね」
「けど今は、これからは――」
そこまで言ってから言葉を区切った。
口に出してしまえばあまりの陳腐さに笑ってしまいそうな言葉だ。それに今更という思いと、自分だけかもしれないという僅かな不安もある。疑っている訳ではないが、いつでも不安は望みの向こう側に佇んでいるように感じてしまうのは、自分の手が他人よりも多くの罪に汚れているという事実のせいだ。
手を伸ばしていいのか戸惑う。血塗れの手を。
だが同じ不安をレイヴン自身も抱いていることも知っている。
だから言葉にする。自分から。
「ずっと一緒にいるんだろ」
「青年……」
「離れないんだろ」
「そう、だったわね。――離れない。約束するわ」
絞り出された言葉に込められた思いを受け止めながら、瞼を下ろして顔をレイヴンの胸に戻した。
身体に響いてくる心臓の振動と、広がっていく温かさは、全ての不安を溶かしていってしまうようだった。
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